Archive for 5月, 2014

侍の語源

「サムライ」は16世紀になって登場した比較的新しい語形であり、鎌倉時代から室町時代にかけては「サブライ」、平安時代には「サブラヒ」とそれぞれ発音されていた。
「サブラヒ」は動詞「サブラフ」の連用形が名詞化したものだそうだ。
以下、「サブラフ」の語史について述べれば、まず奈良時代には「サモラフ」という語形で登場しており、これが遡り得る最も古い語形であると考えられるという。
「サモラフ」は動詞「モラフ」に語調を整える接頭辞「サ」が接続したもので、「モラフ」は動詞「モル」に存在・継続の意の助動詞「フ」が接続して生まれた語であると推定されている。
その語構成からも窺えるように、「サモラフ」の原義は相手の様子をじっと窺うという意味であったが、奈良時代には既に貴人の傍らに控えて様子を窺いつつその命令が下るのを待つという意味でも使用されていた。
この「サモラフ」が平安時代に母音交替を起こしていったん「サムラフ」となり、さらに子音交替を起こした結果、「サブラフ」という語形が誕生したと考えられている。
「サブラフ」は「侍」の訓としても使用されていることからもわかるように、平安時代にはもっぱら貴人の側にお仕えするという意味で使用されていた。
「侍」という漢字には、元来 「貴族のそばで仕えて仕事をする」という意味があるが、武士に類する武芸を家芸とする技能官人を意味するのは日本だけである。

セルゲイ・ヴィッテ

日露戦争においては、ウィッテはロシア国内には飢饉が広がっていることから戦争には反対した。
しかし、政敵であった内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェや強硬派のベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられた。
日露戦争で日本の優位が決定的になるとニコライ2世に再び登用され、1905年講和のためアメリカのポーツマスにロシア側全権として赴き交渉に当たった。
この時外交官としても見事な手腕を発揮し、勝者のはずの日本が実は既に戦争の継続が不可能なほど疲弊していることを見抜き、日本側を翻弄、賠償を最小限に留めることに成功している。

東京渡辺銀行

1877年に第二十七国立銀行として設立され、1904年に二十七銀行と改称。
この時、資本金額を30万円から100万円に増資。
1920年2月の好況期に行名を東京渡辺銀行と改称し、500万円に増資した。
だが、余りの放漫経営が続いたことから、関東大震災後には極端に経営が悪化。
辛くも資金繰りに成功したが、1927年3月14日に第52回帝國議会で大蔵大臣片岡直温が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言。
これを口実に銀行は休業を決断する。
姉妹行のあかぢ貯蓄銀行も同時に閉鎖し、経営破綻した。

なだしお事件

1988年7月23日、横須賀港北防波堤灯台東約3km沖で、海上自衛隊第2潜水艦群第2潜水隊所属・潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が衝突し、第一富士丸が沈没。
第一富士丸の乗客39・乗員9のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った。
死者のうち、28名は沈没した船体の中から、1名は現場付近の海中から遺体で発見された。
残りの1名は救助後病院で死亡。
事故発生時の救助・通報の遅れに対する批判およびバッシングや、その後、艦長らが衝突時の航海日誌を後に書き改めていたことが「改竄」と報じられたこと、なだしおの軍事機密とされる旋回性能の検証開示を行わせたことでも話題となった。
この事件によって瓦力防衛庁長官が引責辞任した。

ディエンビエンフーの戦い

1953年11月において、フランス軍はもはや紅河デルタ地帯を確保するのみで、頽勢覆いがたくなっていた。
しかし一方で、ベトミン軍も広域に展開することを余儀なくされ、兵站上の負担が大きくなっているものとみられていた。
後方支援能力に関してはフランス軍が優位であるとみられていたことから、べトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。
この計画における適地として、北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれた。

昭和金融恐慌

日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。
一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。
1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。
一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。
これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。
昭和金融恐慌は、後年起きた昭和農業恐慌と合わせて昭和恐慌と言われることもある。

コミンテルン

第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「城内平和」を掲げそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。
これに反対する諸派がスイスのツィンメルヴァルトで開いた国際会議がコミンテルンの源流である。
十月革命後の1919年3月、ロシア共産党の呼びかけに応じてモスクワに19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた。
当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国の革命運動を支援する、という使い分けがなされた。
しかしウラジーミル・レーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。
1920年代中頃の中国では、ブルジョア政党の政権が共産党を弾圧しても黙認する、といった例も生じた。

ヴェルナー・フォン・フリッチュ

デュッセルドルフ近郊のベンラート生まれ。
父親も陸軍中将だった。
1898年、士官候補生としてプロイセン野砲兵第25連隊に入営。
2年後少尉に任官。1907年から3年間、ベルリンの軍事大学で学ぶ。
1911年に参謀本部付。1913年、大尉に昇進。
第一次世界大戦にはさまざまな部隊の参謀将校として従軍。
設立間もない航空部隊にも籍を置いた。1917年、少佐に昇進。
その年プール・ル・メリット勲章を受章。
戦後ヴァイマル共和国の国軍に採用され、国防省付となる。
のち第5砲兵連隊で部長。1923年、中佐に昇進。1924年、第1歩兵師団参謀長。
1926年、兵務局(参謀本部の偽称)で陸軍部長。1927年、大佐に昇進。
1928年、砲兵第2連隊長。1931年、少将に昇進。
同年第1騎兵師団長、翌年第3歩兵師団長および第3軍管区司令官に転じる。

準軍事組織

武装警察や沿岸警備隊、国境警備隊、および国家憲兵などが挙げられる。
国によっては、国境の警備から交通取締りなどの行政警察活動や犯罪捜査、災害救助など幅広く運用されている。
戦時体制においては軍あるいは国防省の指揮系統に編入される場合や、ノルウェー沿岸警備隊の様に平時から軍の一部である場合もある。
軍隊と警察の中間的な位置づけで論じられることも多いが、軍事力の構成要素としても、国や時代によって異なるものの決して小さいものではない。
政治的に微妙な地域における警察活動あるいは準軍事作戦を実施するにあたり、直接重装備の軍隊を投入したり、または貧弱な装備の文民警察を派遣したりせずに済み、他国からの非難を浴びにくい存在でもある。
例えば、国境付近に主力部隊を配置すれば隣接国が進攻を警戒し緊張状態を生み出しかねない。
そこで、準軍事組織たる国境警備隊を配置しある種の緩衝地帯とする。

アーネストバージェンス

カナダのオンタリオ州生まれ。
オクラホマ州のキング・フィッシャー大学卒。
シカゴ大学大学院で都市社会学で専攻し、1916年から、同大学で教鞭をとる。
また、アメリカ社会学会の第24代会長を務めた。
人間生態学、都市社会学の分野では、都市地域構造に関する同心円理論を通じたシカゴ学派の実証研究で知られる。
また、パークとの共著『社会学なる科学序説』などで同分野の基本的見地の確立にも寄与した。